TOP → 吉原集落について
 
 
⇒ 吉原の歴史
⇒ 吉原の位置
⇒ 宮古からの移民
⇒ 復帰前後の土地売買
⇒ 吉原の暮らし
⇒ 伝統行事と地域行事
⇒ 吉原・山原の開発状況
⇒ 吉原の自主規制
 
吉原の歴史
 1953年(昭和28年)6月12日 沖縄・宮古島漲水港を出港した海洋丸で午前11時30分、先遣隊四十八名の男達(最年少21歳)が川平に上陸。川平小学校に荷物を一時保管し、うち36名が仲筋地区移民合宿所へ向かう。米原開拓団幹部(彼らは、米軍の土地接収に追われ沖縄本島の読谷村から一足先に移住して来ました)の出迎えを受ける。そこから吉原集落の歴史は、始まります。この日6月12日を入植記念日として毎年欠かすことなく今でも、「祝賀会」を公民館で行っています。 「未開のジャングルを切り開いた」と先人は、言いますがこの地域には、仲筋遺跡、仲筋ピューシタ川河口遺跡、ヤマバレー第二遺跡など、開拓当時鬱蒼としてジャングルにも前人の営みの痕跡が随所にありました。ヤマバレー遺跡からは、屋敷跡の石積みや鉄滓、呂跡、土器、外来陶磁器などが出土しており、当時としては高度の文化を有した暮らしぶりが調査の結果分かっています。しかし、開拓当時カーダーとヒウッタの水田だけが川平の人によって耕作されていました。 人力の斧とのこぎり、クワでジャングルを切り開いていきました。作業中に伐採した大木の下敷きになって亡くなった人もいました。そこに宮古島特有のアララガマ精神の不屈、不撓の開拓魂を見ることができます。勿論太平洋戦争で八重山地区だけで三千六百有余名がマラリアで亡くなった、所謂「戦争マラリア」の「風土病」に罹ることを恐れたことがありました。
吉原の位置
 400年から続く川平集落から川平湾をはさんで4キロ、対岸に位置します。川平集落からは「パッタヌー」(草の生えた所)と呼ばれた所にあります。東シナ海に面する斜面です。 石垣島の最高峰於茂登山(525メートル)系のカーダカーラ、ピューチィタカーラ、ヤマバレーレーカーラ、アラカーカーラの四本の河川が段丘を南北に刻み、花崗岩砂土からなる地域です。砂質ですから農作物の栽培には、適していませんでした。そこから開拓集落の苦悩が始まります。一時は、集団で他の場所に移転を考えた程でした。 しかし自然には、恵まれていて昭和47年に県指定天然記念物に指定された「仲筋村ネバル御獄の亜熱帯海岸林」があります。うっそうとした緑の亜熱帯の自然林で、小鳥の声が妙に響き、海岸近く、奥には、ウタキ(神さまを祭る拝所)があります。
宮古からの移民
 1953年6月12日沖縄・宮古島より開拓先遣隊四十八名が川平湾に出航から三日目に着きました。そして13日 炊事場、便所設置後、清掃の班成をします。 6月14日 伐採作業開始。午後総会を起こし団則協議。午後3時より隣りの米原・富野両集落視察と記録にはあります。そして10月24日に集落設置地鎮祭を行い。11月7日からブルトーザー(多分米軍のモノだったでしょう)で敷地整地作業が開始されます。電気も電話もないジャングルの中です。開拓から12年後(1965年5月18日)砂川盛吉さんが自家発電の事業を始め、ランプ生活からやっと解放されました。そして山から竹を切り出して茅葺きの家を48戸作りました。それが54年前です。 その後1954年1月12日若葉丸で家族を宮古島に迎えに行きます。 1月23日に家族が石垣港に着き、トラック13台に分乗して吉原に午後六時に到着しました。24日に各家を分配し吉原開拓地での生活がスタートします。48世帯です。突如として200名近くの集落が出来たことです。そして驚くべきことに27日には、開拓合宿所で児童・父兄が集まり、仮修業式を行います。ここに無認可の川平小学校の吉原分校が始まりました。子弟の教育を重要に考えたすごいパワーです。今、その吉原小学校から265名の卒業生が世界に飛び立っています。現在の児童数は、7名です。
復帰前後の土地売買
 1972年が本土復帰です。吉原集落では、1955年(昭和30年)開拓民に山原地区土地分配をしております。1971年9月22日 風速67メートルの台風ペスが襲来しました。作物を壊滅状態にしました。集落では、生活に困りました。そして土地一坪がたばこ一箱の値段のタダみたいな値段で本土の人に売却されて行きました。ここが今「リトル・トウキョウ」の異名を持つ本土からの移住者のニュータウン「山原地区」です。離農して行く人が後を絶たなかったのが現実でした。
吉原の暮らし
 人口、戸数、過疎の様子など 戸数50軒ほど、人口200名程です(市街地に行ったり、県外に働きに出たりで、正確に把握できません)しかも高齢化が進み昨年、平成19年では、4名の開拓一世が亡くなり、本年20年にもすでに1名が亡くなっています。方や移住者が増えて、人口の三分の一程にもなっています。家も不法に「農業振興地域」にもかかわらず建てて住みはじめてしまうものまでいるために、やはり把握できません。 公民館には、40世帯が加入しています。しかし公民館に加入してもたいしてメリットがないと云って脱会してしまう内地からの移住者が結構おります。 日本百景の川平湾を見下ろす、のんびりした農村です。メイン・ストリートの県道79号線には、狩俣商店と比嘉商店の二軒のお店がぽつりとあります。 もちろんコンビニなど周囲20キロの範囲には、ありません。川平には、ガソリン・スタンドと観光客相手の数軒の商店があります。 農村地域でありながら、開拓二世で農業を継いだ専業農家がたった3軒、本土から移り住んで農業をしているのが3軒です。後は、ほそぼそとおばぁ達が砂地で根菜(大根・ニンジン)や葉野菜を作っています。しかし自家消費するだけで売るものでありませんでした。いつも「もっていけよー」とただで人に配るだけでした。裸足で道路を歩き、頭に重い荷物をもったおばぁをちょこちょこ、またひんぱんに見かけます。 その昔、本土復帰後、「恥ずかしいから、はだしで歩かないように」と開拓団長さんからの指示があったそうです。でも、しかし、まだはたけを裸足ですごしているおばぁがいます。 一方、開拓二世は、土木・建設業の仕事に従事しておりその数は、25名を上回る人数です。開拓集落のゆがみと公共事業のバラマキ政策を見ることができます。
伝統行事と地域行事
 旧暦三月三日 「はまうり・はまおり」 琉球の昔ながらの女性の磯遊びの日です。海に入って清めの意味もあったかも知れません。「フーチバ(よもぎ)」をその日に食べるのが風習になっています。 吉原集落では、5年前から「浜下り」の伝統を復活させました。 おじぃ、おばぁも吉原小学校の児童は、授業を休みにして「浜下り」に参加します。 集落の若い者(五十代を含む)が7,8人でサンゴ礁のリーフの内側に魚の網を200メートル以上にわたって、潮の満潮時にまるく仕掛けます。そして潮の引いた干潮時にこども達と大人が一列になって棒で海面を叩き、魚を追うのです。それが「追い込み漁」です。いつもバケツに何杯も沢山サカナが採れます。 浜では、テントを張り、公民館から「浜下り」場所のヒウッタ川河口までピストン輸送でおばぁ達を運びます。しんべい鍋(大きな平の鍋)で宮古味噌(麦で作った宮古島の独特の味噌)のさかな汁、焼きそばなどの食べ物が振る舞われます。山原の新住民も参加します。 海岸清掃もおこないます。リーフに打ち寄せるコバルト色に映える白い波を日がな一日見て過ごします。そんなのんびりした「浜下り」です。50〜60名の参加が毎年あります。 八重山伝統の「旗頭」を先頭にした「豊年祭」は、伝統のない開拓集落ではありません。 「吉原日曜市」は、毎週日曜日に吉原公民館で、7年前からはじめました。午前10時から午後5時までです。 おばぁ達がタダでくばっていた野菜を中心に、量は適当に多めに一袋100円で売ります。 安さ質のよさで石垣の市街地から20キロ、沢山のお客さんが車で来てくれます。千円も払えば、もう持てないぐらいの量の野菜。一回に数千円から中には一万円を越える売り上げをするおばぁもいます。おそるべし!!
吉原・山原の開発状況
 本土復帰後の内地資本の土地買い占めを契機に、島全体に「農業振興地域」の網かけをして農地を守りました。しかし五年に一度の「農振」からの除外の総合見直しが平成13年度に山原地区になされました。今まで住居を建てられなかった土地に家が建つようになった訳です。一度吉原の開拓民の手から本土の人に渡った土地が、今度は、「家」がたたない農地と云うことで耕作が放置されていた「山原地区」の土地が、数軒の不動産屋に買い戻されていきました。そしてその後「農振」が除外されていきました。その数200ブロック、30坪程度の狭い土地から1000坪を越える土地まであります。インフラは、ほとんど整備されていず、デコボコの農道と不動産屋が敷設した水道があります。排水溝などは、未整備です。しかし東シナ海を見下ろす眺望は、絶景で内地の人には人気の場所です。「農振」がかかっていた時には、数千円だった土地は、今では最低価格で一坪15万円になっています。